宗教の見方
(本記事は特定の組織・団体を擁護する目的で書くものでは決してありません)
電撃引退
既に多くの方がテレビ等でご覧になったと思いますが、女優の清水富美加さんが突然の芸能界引退を表明し、宗教団体「幸福の科学」の活動に専念する意向を発表しました。
事務所側と幸福の科学側の主張が食い違い何が真実なのかさっぱり分かりません。
(某名探偵の言うように)真実はいつも一つですから、こういう時は大抵同じ事実を部分的に誇張したり隠したりしていることが考えられます。
しかしここではその真相に迫ろうなどということはしません。
それよりも連日の報道で気になったことがあります。
「宗教団体」への怪訝な視線
多くの報道では「幸福の科学」がどのような宗教団体なのか、設立当時の映像などを流しながら説明していました。
信者の方が毎年多額の寄付金を納めていることや彼らがどのような救いを求めて信仰しているかなどが解説されました。
ここまでは一応客観的な説明と言えますが、その後に続くコメンテーター達の発言やネット上の反応は一部を除いて偏向がかかったものに見えました。
どういう偏向かというと、「そんな宗教に帰依してしまうほど清水さんは追い詰められていた」「事務所が本人の意向に沿った仕事をさせて適切な給料を払っていればこんな事件は起こらなかった」という類のものです。
ここには「幸福の科学って如何わしい宗教なんでしょ?」のような考えが見え隠れしています。
なぜそう言えるかというと、例えば清水さんが「人生に疲れたので仏道修行の道へ進みます」と言ったとしたら、先のような批判は出てこないと考えられるからです。
つまり、「仏教や神道、キリスト教などは真っ当な宗教で、最近出来た新興宗教は似非に過ぎない」と思っている人がそれなりに存在するわけです。
宗教とは
然るに、宗教間に優劣をつけてレッテル貼りすることは宗教という概念の神髄を全く蔑ろにしていると言わざるを得ません。
どの宗教も目的とするのは各人の抱える苦悩や不安を解消することであり、その為の方法が各宗教として確立されているのです。人の抱える悩みは無限の種類がありますし、時代が変われば新たな悩みを抱えるようになります。
これは即ち、多種多様な宗教が存在することを必要とするとともに認められる根拠でもあります。
長くなりそうなのでそろそろまとめますが、何が言いたいかというと特に理由も無いのに特定の宗教を怪しいものだとして排除する考え方は良くないということです。
ただし、これは必ずしも私が特定の宗教団体を支持することを意味しません。
また本記事では詳述を諦めましたが、どうも日本人の間では宗教を信仰することに対して何か負のイメージがついて回っているようです。(心が弱いとか言われてしまう)
これには宗教が文化的慣習としてしか認識されなくなった日本の歴史が関係するのですが、今日はこの辺で。
(宗教について語ることは忌避されやすいですが、差し障りの無い範囲で記述を試みました。)